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決断力 羽生善治

私は人間のもっている優れた資質のひとつは直感力だと思っている。これまで公式戦で千局以上の将棋を指してきて、一局の中でぱっとみて「これが一番いいだろう」とひらめいた手の7割は正しい選択をしている。

 

直感力はそれまでいろいろ経験し、培ってきたことが無意識の領域に詰まっており、それが浮かび上がってくるものだ。まったく偶然に、なにもないところからぱっと思い浮かぶものではない。たくさんの対局をし、様々な経験の積み重ねのなかで「このケースではこう対応したほうがいい」という無意識の流れにそって浮かび上がってくるものだと思っている。

 

 

ここで行け!

という判断は、読みよりも直感の働きが大きい。将棋に限らず勝負には流れの中に必ず勝負どころが出現する。

 

年代が上がると短時間で読む力は衰える。私も二十歳の時から見ればだいぶ落ちている。その代わり、歳を重ねると、ただ読むのではなく、思考の過程を出来るだけ省略していく方法が身につく。心臓が強くなるというか、経験をうまく生かしていくのだ。年配の将棋士は技術だけでなくハートが強い。

 

勝負に生かす集中力

深く集中している状態では、雑念や邪念が消え去り、深い、森閑とした世界に身を置いた感覚である。周りを見ているが見ていなかったり、見えないものが見えたりする。時間の観念も無くなり、短時間に多くの手が読め「これだ!」という決断も早い。そういう時は集中力の持続も長い。

集中力が深い時には、その時の記憶しっかり刻み込まれ、対局が終わった後も明快に思い出せる。逆に、深く集中できない時は、同じところをグルグル回って読んだり、決断に迷ったりする。

 

 

集中力だけを取り出して養う事はできない

深い集中を得られるかどうかは、将棋を指していて、面白いかどうかによる。楽しい局面かそうでないかで集中の度合いは全然違う。

例えば一方的に攻められているような将棋だと集中は弱くなる。楽しくない。

興味を引く局面は深く考えてみたいと思う。面白い局面、考えがいのある局面、そういう方向へ持っていくことが集中力につながる。

子供は好きなことなら時間の経つのも忘れてやり続けることができる。夢中になったら黙っていても集中するのだ。集中力のある子に育てようとするのではなく、本当に好きなこと、興味を持てること、打ち込めることが見つけられる環境を与えてやることが大切だ。

何かに興味を持ち、それを好きになって打ち込むことは、集中力だけでなく、思考力や想像力を養うことにもつながる。

 

 

集中できる環境を作る

将棋には「ここぞ」という勝負所がある。そこで集中出来るかどうか、集中力を活かせるかどうかにかかっている。

勘が冴えている時には勝負所が自分の考えとピタリとあって展開する。冴えない時は長考して指した手に対して、相手から意表をつく手を返されてしまう。

 

どんなに訓練を積んでもミスは避けられない

プロになって二十年近くになる。いろいろ経験を積んだし、訓練もしてきたが、どんなに訓練を積んでも、ミスは避けられないということを実感している。

実は、将棋では勝ったケースのほとんどは相手のミスによる勝ちである。

 

ミスをすると情勢が混沌としてしまう。スムーズだった流れが停滞したり、局面が複雑になり、判断がつきにくい場面になる。すると、さらに難しい状況になるので、次のミスが出やすい。ミスがミスを呼ぶと言われるが、状況が複雑になって難しくなってしまうために起こりやすくなっているのだ。

 

ミスがどういう状況で起こるかはプレッシャーと関係する。練習と本番では心理面が違うのは当然だ。技術的に優れ、経験を積んでも、本番になるとプレッシャーは感じるものだ。

 

 

プレッシャーを克服するには経験が大きく役に立つ。机上の勉強や練習では養えない。実戦の中でいろいろな局面にぶつかり、乗り越えることでしか身につかない。

勝負の世界ではたとえ失敗しても次のミスを防ぐことが大事だ。怒りの感情があればそれはできない。自分の感情をコントロールすることは実力にもつながる。

 

負けると悔しいのは私も同じだ。若い頃は物を投げたりゴミ箱を蹴飛ばしたくなったりしたこともけっこうあった。最近は勝つことにはあまり執着しなくなった。将棋は勝つことが目的だが、勝とうとすることは欲である。その欲が考えを鈍くしたり、度胸を鈍くする。

 

勝負が長くなってくると、決着がつかない状態にだんだん苛立ちを覚えてくることがある。集中力の基盤は根気であり、根気を支えるには体力が必要だ。勝負を急いでしまうといい結果は得られない。体力がないと苛立ちに負けて、考える力はまだ残っているのに、最後まで集中できない。

 

体力は言い換えるとエネルギーである。エネルギーは生きる力だ。エネルギーが枯渇するとやる気は出ないし持続しない。自分が大事にしてたり何かに賭けていたり、究めたいと思っていたり、人生の中で目指しているものがはっきりしている人は、いくつになってもエネルギーがある。

 

情報は「いかに選ぶか」より「いかに捨てるか」が重要

情報をいくら分析しても、どこが問題かとらえられないと正しく分析できない。

生きた情報を学ぶのに最も有効なのは、進行している将棋をそばで皮膚で感じ、対戦者と同時進行で考えることだ。将棋は生き物だ。どう展開し勝敗がどちらに転ぶかわからない。

 

才能とは継続できる情熱である

私は才能は一瞬のきらめきだと思っていた。しかし今は十年、二十年、三十年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。直感でどういう手が浮かぶとか、確かに個人の能力には差がある。しかしそういうことより、継続できる情熱を持っている人のほうが、長い目で見ると伸びるのだ。

奨励会若い人たちをみていても、発想がパッとひらめく人はたくさんいる。だが、そういう人たちがその先プロになれるかというと、意外にそうでもない。逆に、一瞬のひらめきのある人よりも、さほどシャープさは感じないが同じスタンスで将棋に取り組んで確実にステップを上げていく若い人のほうが、結果として上に来ている印象がある。

やっても、やっても結果が出ないからとあきらめてしまうと、そこからの進歩は絶対にない。周りの将棋士たちをみても、目に見えて進歩はしていないが、少しでも前に進む意欲を持ち続けている人は、たとえ時間がかかってもいい結果を残している。

 

 モチベーションの継続が大事

現役のプロの将棋士は約150人だが、力が衰えるとすぐにおいて行かれてしまう可能性がある。一週間、全く駒に触らずに将棋から離れていると力はがくんと落ちてしまうだろう。何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、だれでも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、をもって継続するのは非常に大変なことであり、それこそが才能だと思っている。

 

一つのことに打ち込んで続けるには、好きだということが根幹だ。うまくいかない時もペースを落としてでも続けることだ。無理やり詰め込んだり「やらなきゃ」ではなく、一回の集中力や速度、費やす時間を減らしても、毎日、少しずつ続けることが大切だ。無理をして途中でやめてしまうくらいなら「牛歩の歩み」に変更したほうが良い。

 

弟子に手取り足取り教えることはない

先生は弟子の将棋や生活態度をみていると、いろいろ思うところはあるそうだが本人に直接いっても意味がないと考えている。本人が自分で気づかないと上達しないというのだ。

将棋は自分で考え、自分で指し手を決めていく。教わったことをまねたりして、将棋をやっていくことが習慣化してしまうと自分で局面を考える力は育たない。